佐藤竜雄監督の『モーレツ宇宙海賊』が先日関西でも無事に放送を終えたわけなんだけど、本当に凄い作品だった。
『機動戦艦ナデシコ』以来ずーーーーっと佐藤竜雄監督の大ファンで、ずっと追いかけてきている監督なんだけど、本作は間違いなく『監督』佐藤竜雄の代表作になると思う。それほどまでに凄い一作だった。
思い出補正込みでもナデシコやステルヴィア級の一作ではないかと。
さんざんアニオタやってきて最終回もちゃんとチェックする人間なんだけど、『モーレツ宇宙海賊』だけは「これが終わってしまう!」と言う現実に耐えられなくて最終回見たくなかったんだよ!
でも見ました。だってあの引きで「よし見ない!」なんて判断できるわけない。
ちゃんと睡眠をとって正座して見て、そして泣いた。
「ああ素晴らしい作品だったな」「これは一生見続けるアニメだな」と確信しながら、ただ呆然と涙を流すだけの機会になってたよ。
まあエンドカードで劇場版が告知されて、「よし!俺の中ではまだ終わってない!」と思って、今こうやって自分の感情に一区切りつけようとしているんだけども。
■
で、この『モーレツ宇宙海賊』がどう凄いかというと、この作品は
「尖っていることがないのに、個々の要素が高水準でまとまっていて面白い」んだよな。
これがどういうことかというと、最近の作品は良くも悪くも
「尖っていること」を求められているんだと思う。
この「尖っていること」というのは「初めて見た人でも分かるその作品のウリ」とでも言えばいいのかな。
アニメを見ていく上で「どう楽しめばいいのか」というのは大事なんだけど、尖っているところというものがあると「注目しておく点」が楽しみ方が非常にわかりやすくなる。それは「製作者側が提示してくれた見方」ではあるんだけど、「どう楽しむべきかわからない」というのはやっぱり消化不良を起こすし、不愉快に感じてしまうので視聴継続が困難になってしまう。
だから「尖っている事」というか「視聴者の目を引かせて、継続して視聴させる体勢に持っていく」と言う事に必要になってくる。
特に今は2クール物ですら一時期に比べれば結構少なくなってきているし、1クール物が主流になりつつある今の流れを考えると「目を引く要素」を作る意味でもどんどんと尖った作品が生まれていくのだと思う。視聴者もそういう尖ったものに慣れていくしね。
それがいいことかどうかは製作者ではなく視聴者である俺の知ったこっちゃないのだが、そういう「尖っている」を求められる今のアニメ業界において、『モーレツ宇宙海賊』の在り方というのはアンチとまでは言わないまでも
懐疑的な作品だったんだと俺は感じた。
物語的には尖ったところを作ろうと思えば作れるんだけど、あえてそれをせずに「アニメとしての完成度を高める」と言う方向をもって「何となく見れる」から「面白い!」へ視聴者の中での価値を変質させているという凄い。
2クール26話という最近の作品にしては長い話数で制作されているということを差し引いても、この「尖らなさ」と「何となくから面白さへの変換」はやっぱりこの作品を語る上では(個人的に)かなり重要なことになっていると俺は思っていて、その変質というのがキャラクターの個性にもつながっていると思うんだよね。
この作品のキャラクターデザインって実はあきまんなんですけど、あきまんといえば『∀ガンダム』とかのキャラデザもやってる人なんだけど、このあきまんが『モーレツ』のキャラクターデザインの依頼があった時に言われた事は
「後から魅力に変わるデザインになるように」らしい。
その発注通り本作のキャラクターデザインというのは、はっきり言って今のキャラクターデザインにあるような「華」と呼ばれる「目を引く」「派手な」ところがないんだよね。
これは主人公やレギュラーメンバーだけでなく全員そうなんだけど、それがこの作品において失敗になっているかというとむしろ逆で、その「華のなさ」が物語が進むにつれて個別のエピソードや性格が描写されていくことに熟成されて、そのキャラクターごとの「奥深さ」や「味」になっていく。
それが物語展開にどういう影響を及ぼすかというと「原作にいないキャラが原作にいるキャラと同じぐらい存在感があるキャラになっていく」という事にもなるし、なにより「そのキャラクター達が行う行動の一つ一つに視聴者が説得力を見出すことが出来る」。
特に最終エピソードでは「とあるキャラが入れ替わっている」というエピソードがあるんだけど、「誰が入れ替わっているのか」が判明した時に「納得ができる」と思えるようになっている。これが絶妙で「言われてみれば確かに」はエピソードの積み重ねだけの問題じゃなくて、「後から魅力に変わっているからこそ」納得がいくんだろう。
華があるとどうしてもそちらに目が行きがちだしね。華はないんだけど、「後から納得がいくデザイン」と言う意味では間違いなく本作は大成功の類で、「これじゃないとダメ」と思わせるだけの説得力を持つまでに昇華しているのは流石だと思う。
そこら辺の「デザイン面」ではメカデザインも面白くて、弁天丸やオデッサ二世のデザインはかなり特徴的。特にオデッサ二号は主人公である加藤茉莉香が初めて乗り込み宇宙に出た船ということもあって、派手めのデザインにはなっているんだけど、その派手さ加減と実用性の間ぐらいでちょうど落ち着いていて凄くいいデザインだなーと個人的には思うんだけど、一番良かったのはやはり機動戦艦グランドクロスのデザインかな。
「明らかに異質なもの」としてデザインされたグランドクロスはそこに使われている技術の関係もあるのだろうけど物語を締めくくるラスボスとしての風格を兼ね揃えながら、調和のとれたデザインになっていて「機動戦艦」と言う名前どおり流線型の良いデザインだと思います。重力航行形態のありえなさはガチ。
「重力航行に移行した」という事が分かりやすいんだけど、それゆえに「怖さ」にも繋がっているので凄い。
戦艦一隻じゃ勝てない!ってのがデザインから分かるのは凄いなーと思ったらメカデザは河森正治(じゃなくて鷲尾直広さんらしい。機能性を詰め込んでる感じで好き)おのれ!
■
今までキャラクターやらこの作品の凄さやら語ってきたけど、この『モーレツ宇宙海賊』は物語としては「宇宙海賊の船長となった主人公が、宇宙海賊として成長していく」というかなりシンプルな成長物語。
面白いのはこの主人公の「成長」というのはほぼなくて、どちらかというと「経験」のドラマになっているという点で、この主人公は「宇宙海賊船弁天丸の船長」に急遽選ばれるわけなんだけど、「急遽選ばれた船長が振り回されながら成長する」と言う話かというとそうではない。
むしろ「実力は十分に持っているんだけど、経験が足りない新米船長」と言う描写のされ方をしていて、最近のアニメではあまり見られなくなった「実力者の主人公」という主人公像になっている。
でも「宇宙海賊船の新米船長」。
これはどういうことかというと本作では主人公が「宇宙海賊船の船長になる」と決断するまでに、五話費やしており、そこできちんと「主人公が実力者である」ということが提示されているんだよね。
とある事件に巻き込まれ、それを解決するだけの実力があると「宇宙海賊の船長になる!」という決断を下すまでにきちんと描写されているから、本作は「実力者」であるのに「新米宇宙海賊」という設定が展開できる。
要するに「新米」は
「宇宙海賊」にかかっているのであって、主人公自身の経歴にはかかっていないということなんだけど、疑問が残るのはなぜ五話も決断するに至るまで時間を費やしたのかという点。
別に「実力者でも新米宇宙海賊である」ということは一話でも描写できないわけではない。
でもなぜ佐藤竜雄監督が最近のアニメでは見られない「長い時間をかけて主人公が決断する」という編成をやったかというと、監督曰く
「この後、物語を牽引していく主人公の決断が、周りに流されてするのではなく、説得力のある描き方をしたかったから」だという。
確かにそのとおりなんだよね。
この後、加藤茉莉香は様々な経験をしていくわけなんだけど、海賊船弁天丸の人々はクセのある人間ばかりで、彼らを束ねられるリーダーとしての素質を持った人間がいる。
そんなリーダーになるべき人間が「船長になってください」といわれたからといってそのまま船長になってしまうというのは、流されているようにしか見えない。
ましてや癖の強い人間の上に立つのだからそれ相応の覚悟と実力が提示されないとやっぱり「流されながら証明していく」と言う方向しかない。
しかしそのドラマ展開は「主人公の内面的な問題」にシフトしやすく、それは「この作品の本当に描きたいもの」ではない。
この作品が本当に描きたいものは「宇宙海賊弁天丸の活躍」なんだろうと俺は思う。
だからこそそんな弁天丸の船長である彼女が
「癖のある宇宙海賊達を束ねて行動し、流されるのではなく流れを変えたり、時に流れを作り出せたりする決断ができる実力者だ」ときちんと描写する必要があり、それをやるためにこれだけの時間を割いたのだろうなー。
■
それだけの実力者として描いたことで、黄金の幽霊船編では王女グリューエルを救う英雄的役割だけでなく彼女と対等に接することが出来る「友人」という立ち位置に対する説得力があるんだけど、本作で面白いのは主人公である加藤茉莉香の成長物語ではあるんだけど、彼女が船長を務める「弁天丸」の話でもあるということ。
新米船長である茉莉香と弁天丸クルーの立ち位置は
「大人と子供」が一番しっくり来るんじゃないかな。
本作の監督を努めた佐藤竜雄監督は今までも何度かそういう「大人と子供」という構図をやっているんだけど、彼の言う「大人」というのは
「子供に対して責任をもってきちんと向き合い、自らの責任を果たすことが出来る人格者」というものなんだけど、『モーレツ』の中でもきちんとその大人像が提示されていて、船長である茉莉香の副官的ポジションに収まるミーサやケインは明確に「大人」として描写されているし、クルーについてもそう描写されている。
また病気により茉莉香と茉莉香が所属する部活の部員だけで海賊として動かなければならない!と言う自体に対して、彼らは「子どもだから」という判断で咎めたり説明を追求するのではなく、彼らの事を全力で支援するという行動を起こしており、自らの「責任」を果たそうとしている。
元々原作自体そういう大人像を提示しているのだけれど、佐藤竜雄監督の調理の仕方は絶妙で「大人」であるクルー達と「子ども」である茉莉香のドラマとして、時に入れ替わりながらも「共に進んでいく」と言う姿勢に関して一貫しており、物語のサブテーマ的な役割としてメインとなるドラマを引き立てる効果を果たしている。
■
さて本作のテーマなんだけど、毎編ごとにテーマが違うんだよね……。
共通するテーマは「スペースオペラ入門編」って感じか?
ただ本作で唯一のオリジナルエピソードとなっている「海賊狩り編」でのテーマは
「海賊とは」だと俺は思う。
何度も名前を出しているけど、本作のラスボスを務めるのはグランドクロス。
このグランドクロス側の主張は「宇宙海賊というのは興行ばかりで誇りがないから倒してもいい」というものなんだけど、それに相対する茉莉香は「グランドクロスが否定する海賊像を誇りとしている」という理由で戦いに挑む。
この海賊狩り編では強敵であるグランドクロスに宇宙海賊達が結託して戦いを挑むのだけれど、その中でも一番若い(海賊になって一年半)の茉莉香が、「誇りがない」と否定された「海賊興行」を誇りとして戦いに挑むと言う構図になっており、その「誇り」がグランドクロスの計画を打ち破るという「2クール」という放送期間の長さを生かした「集大成」としてのエピソードになっており、最終回は「半年間見てきたからこそのカタルシス」を生み出すことに成功している。
サブテーマである「宇宙海賊を続けるのか高校生に戻るのか」という「進路相談」というべきエピソードに対してもサブタイトルである「そして、海賊は行く」が回答になっている。
このサブタイトルを持って物語を締めくくるというのがニクい演出となっていて、茉莉香の回答だけでも素晴らしいのにサブタイトルでは膝を打ってしまったよ!クソ!
■
俺にとって『モーレツ宇宙海賊』は「マラソンする覚悟がある作品」だし、「劇場版もちゃんと見に行きます」と現段階で決めるほど強く入れ込んでいる作品なんだけど、ファン評価を差し引いても素晴らしい作品だった!といえる。
今でも最初の方のエピソードを見ると後につながる兆しのようなものがちゃんとあって、その時々の面白さだけでなく「あとで見直す面白さ」もきちんとある。
「尖ったところは確かにない」んだけど、それでも「視聴を続けるごとに見えてくる圧倒的な面白さ」というものがあって、それはやっぱり「2クールだから」とかではなく「描写するべきものを納得がいくほど描写している」という「丁寧さ」なんだよね。
何にしても「今年はこの作品があれば生きていける」という得難い経験と「終わってしまうことへの寂しさ」という、アニオタな俺が忘れていた感覚を呼び起こしてくれた『モーレツ宇宙海賊』はほんとうに素晴らしい作品だった!
劇場版も期待しています!舞台挨拶にも行きます!三回ぐらい見ます!
今日はそんなところで。
「さあ、海賊の時間だ!」
スポンサーサイト
[C998]