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『プリパラ』と幼年期の終わりについてのメモ

神アイドル編に突入してからの『プリパラ』には『1st season』『2nd season』と同質の「アイドルとして成長していく成長物語の面白さ」と、これまでとは異なる「謎の幼児ジュルルの母親を務める育児の面白さ」の二つが存在している。どちらか一方の面白さに偏りすぎることなく、両者の面白さを織り交ぜながら「人間として」成長していく姿にはたまらない面白さがあり、道中で手に入れた喜びも悲しみも嬉しさも怒りも、その全てが神アイドルが誕生する「神アイドルグランプリ」へと繋がるシリーズ構成には唸るしかない。
「『プリパラ』がファンとスタッフと共に歩んできた約三年間の集大成」と言っても過言ではない。この一年間展開されてきた神アイドル編は最高に面白い長編なのだが、物語も最終盤に差し掛かり、「神アイドルグランプリ」も最後のステージを残すのみとなった現在の状況から察するに、この神アイドル編は「幼年期の終わり」をキーワードにしていたように思うのだ。

神アイドル編の前半から中盤戦にかけての日常パートでは主に母親代わりとしてジュルルを育てる様子が描かれてきた。
神アイドルグランプリに合わせてプリパラがアップデートされたその日、らぁらの前に現れた幼児ジュルルは、らぁらを母親と認識。紆余曲折の末らぁらが母親代わりになってジュルルを育てることになってしまう。
当初は泣いているだけで意思なんて全く読み取れなかったジュルルと突如母親役をやることになって四苦八苦するらぁら。しかし一年間の日々の中で二人は親子の絆を紡ぎ、ジュルルと共に過ごした日々は、らぁらを含めジュルルに関わった全ての人達を一個の人間として成長させてきた。しかしらぁらとジュルルのこの「母親-子供」という関係性が終わりを迎えた時=「幼年期の終わり」が訪れようとする時に何が起きるのか、自分はどう思うのかについては意外と触れられてこなかった。せいぜいジュリィになれることが分かった時に「私はジュルルにどうなってほしいのか」という事に触れたくだりがあったぐらいである。
そして神アイドルグランプリが始まり、ジュルルはジュリィになった。「ジュルルにはもう戻らない」と宣言し、彼女は女神ジュリィとしての責務を果たすべく行動をし始めた。らぁらの目の前で。
しかしらぁらのジュルルへの想いは変わらなかった。ジュルルは本来の姿であるジュリィに戻り、二度とジュルルにはならないと分かっていても、らぁらは「ジュルルの母親」であり続けた。一年間という短い時間とはいえ双方が紡いできた親子の絆は、幼年期の終わりを迎えて、「大人になったとしても」変わらなかったのだ。
あれだけ親子の絆を確かめ合って涙を流したとしても、「もうジュルルには戻らない。女神としての責務を果たす」と告げられても、らぁらの中ではいつまでもジュルルは「最愛の娘」のままなのである。神アイドルグランプリ前夜のジュリィの運命とそれを踏まえてのやりとりは、らぁらに「ジュルルを救う」という思いを強くさせるだけだった。「どれだけ姿が変わったとしても共に過ごした日々と絆はずっと残り続ける」というのはある意味友情に通じるものがあるが、「親子関係」を通じて改めて描いてきた事は本当に素晴らしいものを描いていたように思うのだ。

「幼年期の終わり」というキーワードで見ると、アイドルパートも最終的にそこに話が向かっているように思う。
「神アイドルグランプリに出場し、神コーデを解放することが出来たアイドルが神アイドルになる」という事で始まった神アイドルグランプリだが、そらみスマイルが優勝して神コーデを解放し終えた後、女神達から告げられたのは「私たちを乗り越えていきなさい」ということだった。
「最後に立ちふさがるのは試練を与えていた神そのもの。神を乗り越えることでその偉業を認められる」というのはよくみる流れではあり、「女神自らが立ちふさがる」という展開は「神アイドル」が決して名ばかりではなく、本当に「神の領域にあるもの」であることを物語るのだが、らぁら達の目的が「女神の救済」、つまり「プリパラ」というシステムそのものの改変であることを考慮すると、この展開があまりにも熱い。なぜなら、この展開は「神を超えてシステムを変える=プリパラを神の庇護下から人間のもとに取り戻す」という神話的展開そのものだからだ。
つまりこの神アイドル編は「神々の庇護下から離れ、世界を管理していく資格を得る」という人間の自立を描いた神話なのである。
だから、熱い。どこまで言っても「人間の物語」から離れず、人間が神の考えた世界を否定し、より良い世界を作るためにこの世界の管理者たる女神ジュリィとジャニスに戦いを挑んでいるのだから!
最終的にどうなるのかは分からないが、親子の絆を胸に最後まで人間として世界をより良いものにしようとするらぁら達の意思はとても輝いている。
『プリパラ』も残すところあと少し。
人間が描く、人間のための世界の創造に期待していきたい。

『劇場版プリパラ』に見る「きっかけをくれた人との友情」の価値について

『劇場版プリパラ み~んなでかがやけ!キラリン☆スターライブ!』が凄かった。「『プリパラ』がファンと共に歩んできたこの約三年の時間が出し惜しみすることなく全て詰め込まれている」と言ってもいいほど、『プリパラ』として最高の劇場版アニメだった。
ぷちゅう(プリパラの中にある宇宙)を巡って、プリパラの魅力でぷちゅう人達と交流していく旅も『プリパラ』が大切にしていた「みんな友達!みんなアイドル!」というテーマを感じさせるものであり、ファーストコンタクト物の面白さと『プリパラ』の魅力を上手に混ざり合わせ、双方の調和が取れた物語へと仕上げられている。
シリーズの魅力の一つとなっているライブには神アイドル編の楽曲が中心となりつつもそふぃファン待望の新曲にプリパラアイドル全員のステージもありと盛りだくさん。昨年姉妹作品である『KING OF PRISM』のヒットのおかげで定着した応援上映会のノウハウをフルに活かして盛り込まれた「応援上映会の開催を前提とした演出」はこれまで以上に自然なもの。「踊ってもいい」というのは子供向け作品には見られるが、その際の諸注意までも作品の演出に組み込んでしまうことで「みんな友達!みんなアイドル!」を際立たせている。応援コールの可視化は文字の視認しやすさと作品演出とのバランスに苦心しそうなところだが、ちょうどいい辺りに落とし込まれていて、応援上映会でなくても違和感を感じることなく楽しむことが出来るだろう。

毎週シナリオが変わるルート分岐は今回も存在し、総じて「『プリパラ』の総決算」「『アイドルタイム』ではないただの『プリパラ』の一つの集大成」という印象を強く受ける作品なのだが、今回特に素晴らしかったのはルート分岐後に描かれる世界である。
これまで『プリパラ』では、前シリーズ『プリティーリズム』のプリズムショーを紹介するルート分岐や、プリパリへ向かう途中の他のアイドル達の様子を描いたルート分岐など様々なルート分岐をやってきたが、今回のルート分岐で描かれるのは「この世界とは違う道を歩んだ世界」。我々の知る『プリパラ』とはまた少し違った「もしあの時こうだったら」というifをルート分岐という形で描かれる。
現在公開中のらぁらルートで描かれるのは「らぁらが初めてプリパラに行った時に出会ったのがみれぃではなく、幼少期からの友人であるなおだったら」というものだったのだが、このifの可能性を描いたことで「みれぃと出会った事」は『プリパラ』という作品の中で特別なものとなったと言ってもいいだろう。あの時の出会いは最高に価値のある出会いだったのである。
このらぁらルートで描かれるifの世界では単純にみれぃがやったことがなおに置き換えられている。アイドルの世界へと勧誘するのもなおだし、アイドルデビューに躊躇するらぁらを「プリパラが好きなら大丈夫」と励まし、背中を押すのもなおである。らぁらはなおに誘われ、アイドルデビューを果たす。もちろんプリズムボイスも発揮されるし、そのプリズムボイスによってファルルはらぁらに興味を持っている様子もきっちり描かれているのだが、この事から推察するにみれぃの役割をなおが果たしたとしても大きな変化はないのだろう。おそらく誰と出会ってもらぁらはアイドルデビューを果たすし、プリズムボイスを発揮していたに違いない。大局的に見ればみれぃもなおも「らぁらをデビューさせるきっかけを作った要因の一つ」であり、それ以上の価値は存在しないのである。
しかし誰と出会ったとしても結果は変わらないからこそ、あの時偶然出会った事には特別な意味を持つのだ。
確かにみれぃと出会ってもなおと出会っても、らぁらがアイドルデビューをする結果は揺るがない。そふぃでもちゃん子でもおそらくらぁらはデビューしていただろう。だが、「出会うのは誰でもいい」からこそ、『誰と出会ったか』は無数に存在する可能性の中で選ばれた「特別なもの」なのである。故にこの展開は我々の知る「みれぃとらぁらの出会い」を逆説的に特別なものへ変えていく。
無数に存在する可能性の中で「らぁらのデビューのきっかけを作る存在」として選ばれたみれぃは、この世界のらぁらにとって間違いなく特別な存在だ。
それはみれぃにとってもそうだろう。あの時、みれぃが出会う相手はらぁらじゃなかった可能性もあるのだ。
みれぃのことだから、おそらくらぁらでなくとも彼女はアイドルとして大成していただろう。しかしあの時らぁらに出会ったから今のこの世界のみれぃがある。その事実は紛れもない真実だ。無数に存在する可能性の中でこの世界だけが放つオリジナルな輝きだ。

今回用意されたルートは残り二つ。ひびきルートとみれぃルートだ。
らぁらルートは「無数の可能性の中でらぁらとみれぃが出会えたこと」を特別なものへと変えてくれた。ではひびきルートとみれぃルートはどんな可能性を見せてくれるのだろうか。例によって十回以上見そうな勢いではあるが、最後の最後まで見たいところだ。


『ニーアオートマタ』があまりにも面白すぎる件について

先日発売された『ニーアオートマタ』が滅茶苦茶面白い。
あの「ゲーム」という表現を突き詰め、スタッフとユーザーが暗黙の了解で不可侵領域に設定していたセーブデータにも手を伸ばして「ゲームとしての演出」の中に組み込んでしまった『ニーアレプリカント』の続編という事でプレイしていたが、『ニーアレプリカント』の続編という事や自分があの『ニーアレプリカント』の表現に完全にやられた人間であることを抜きにしても総合的に完成度が高く、Cエンドを目指す三週目の途中ながらも「今年上半期を代表するタイトルの一つだろう」という手応えを得ている。
出来れば多くの人にこのとんでもない作品をプレイしてほしいので、本記事ではこのゲームの面白いと思う理由を書いていく。迷ってる人は是非参考にしていただき、「積むかも」と思っている人はネタバレを踏まないために早くやってください。

まずこのゲームが面白いのはその世界観である。
西暦5000年頃に突如外宇宙生命体エイリアンが出現。地球全土に自分達の兵器である機械生命体を送り込み侵略をし始めた。地球人類はその突然の攻撃に為す術無く撤退。人類は月へと逃れ、地球はエイリアン達の支配下に置かれていた。とはいえ人類も黙って地球が蹂躙されるのを見ているわけではなく、アンドロイド部隊を組織してエイリアンの手から地球を取り戻すべく戦いを開始する――というのが本編が始まるかなり前の出来事である。
本編開始時点での地球は機械生命体による攻撃で文明は完全に崩壊していて、人類は当然存在していない。地球で活動しているのはエイリアンが送り込んだ機械生命体と巨大化した植物と動物、そして人類がエイリアン殲滅のために作り出したアンドロイドだけである。文明はとっくに崩壊していて何も残っていない。プレイヤーが巡るのも廃遊園地に廃工場、廃墟都市に地盤沈下で沈みゆく水没都市、砂漠の中にそびえ立つマンモス団地であり、かつて人類がどう過ごしていたかを想像させるような場所ばかりだ。
そんな文明の残骸を支配する無機質で記号的な無数の機械生命体達……。
球体にカメラアイが二つついてるだけの簡素なデザインだが、その簡素さ故に「機械らしさ」を感じるし容赦なく破壊することが出来るのだが、正直この世界観だけで素晴らしいものがあるし、こうした廃墟が好きな人間にとってはたまらないものがある。
個人的に素晴らしいと思うのはその色彩設計だ。砂漠地帯は若干赤めの、遊園地は若干紫寄りの、森林地帯には若干緑めの色合いになっており、巡る場所によって全く異なる印象を残す。砂漠地帯の赤さ加減は太陽の強さと唸るような暑さを感じるところだし、遊園地は寂しさと触れれば壊れてしまいそうな儚さがあり、森林地帯は文明と機械生命体と動物が暮らす世界ながらも不思議な秩序を感じてしまう。
プレイヤーが自由に走り回れる世界はそこまで広いわけではないのだが、こうした色彩設計のおかげで一つ一つのエリアが全く異なる印象を残すため、全く不満感がない。特に森林地帯は落ち着いた色合いながらも、機械生命体達による王国が建国されているため、そのアンバランスさが自分好みでとても素晴らしかった。

またアクションゲームとしての完成度の高さも素晴らしい。
『ニーアオートマタ』の作りそのものはごくごく普通のアクションゲームそのものだ。弱攻撃ボタンを押せば弱攻撃に装備していた武器で攻撃し、強攻撃を押せば強攻撃で斬りかかる。回避ボタンを押せば回避をするし、操作するキャラクター達に同行する支援ポッドに射撃を命令すれば射撃をする。作りそのものはごくごく普通のゲームなのだが、とにかくレスポンスがいい。特に回避はボタンを押せばすぐに回避行動に移るし、相手の攻撃に合わせて回避した時に見られるジャスト回避では凄まじく格好いい動きで回避してくれる。おまけにこの回避行動はデメリットがないので、思う存分回避ができる。機械生命体に囲まれた状態から一発も喰らわずに、おまけに格好良く切り抜けられるのは実に爽快だ。
また相手の射撃攻撃も大抵の場合無力化できるのも素晴らしいところである。大体の弾は近接攻撃で真っ二つに出来るので、弾幕がまるで怖くない。ボス戦では相手がシューティングゲームのように弾幕を張ってくるが、大体の弾幕は攻撃で無効化できる。
相手の射撃や近接攻撃を織り交ぜた猛攻を回避や攻撃を駆使してスタイリッシュに切り抜けられたら、それはもう最高の気分である。楽しすぎて仕方がない。
なお二週目からは9Sを操作できるようになり、「相手にハッキングして大ダメージを与える」ということも可能になる。このハッキングはシューティングゲーム風なので、キャラクターごとの特性を戦闘面でも出しつつ同じことを繰り返さなくていいのである。最高だ。

最後にストーリーについて述べておくと、概ねいつものヨコオタロウディレクションゲームでとても面白い。
そもそも『ドラッグオンドラグーン』自体が「マルチバッドエンディングゲーム」と称されるほどどの展開も救いがなく、これは『ニーアレプリカント』でも「一見するとハッピーエンドだが、二週目以降に語られる内容を読み解いていくと明らかにバッドエンド」という形で再現されているが、本作もほぼその手の類である。
一周目では「アンドロイドと機械生命体を分けうるものはないのでは?」と言う形でハッピーエンドに近い終わり方をしていても、二週目以降で語られる内容は概ね重い結末で、かなり救いがない。そもそもの「人類は本当に生きているの?」という問いについても同じである。『オートマタ』の世界は『レプリカント』で語られていたとおりの末路を辿った世界で、どうやっても絶望だ。
それでも「面白い」といえるのは、あまりにも人間的なドラマだからだ。アンドロイド達は死んでも次の義体に移るだけだし、機械生命体達はどうやっても機械で、機構そのものは人間ではないのだが、その行動はあまりにも人間的で、だからこそある意味滑稽であり、ある意味人間同士の物語よりも真剣さを帯びる。
三週目以降のあの無機質で簡素なデザインのロボットにすらも感情移入してしまっていた事を突きつけられる廃工場でのイベントはなんとも悲しいものだったが、それを悲しく感じるのは彼らが肉体は機械でも精神は機械ではなかったからだろう。だから辛いし悲しい。そしてだからこそ最後まで見届けたいと思う。
まだ全部読み取れていないが、きっと最後にはどんでん返しが待っているのだろう。楽しみだ。

そんなわけで『ニーアオートマタ』について書いてきたが、本当に素晴らしいゲームである。ネタバレすると魅力が失われるだろうということが分かるほどにストーリーが素晴らしく、そのストーリーを追いかけるためについついコントローラーを持つ時間が長くなってしまう。まだ40時間ほどしかプレイしてないが、まだまだプレイできそうでワクワクしている。「アクションゲームは苦手」と言う人もいるだろうが、本作に搭載されているイージーモードはボタンを連打しているだけでも派手な立ち回りを演じられるほど優秀なのでアクションゲームが苦手でも十分に楽しむことが出来るだろう。食わず嫌いで終わるにはあまりにも勿体無いので、体験版からでもいいので是非やってみてほしい。



Appendix

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■DREAM WING(C87新刊)


■プリズムアライブ(C86新刊)
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とらのあなで委託中

■スイッチオン!(C85新刊)
アイカツ3
とらのあなで委託してました

■RUNWAY
表紙
とらのあなで委託してました

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